Akihiko TOMIYA (Geological Survey of Japan, AIST)
なお,以下で用いられるN11, N12形式の火口番号(北大ほかの総合観測班地質グループによる:2000年5月22日火山噴火予知連絡会資料)は,火口の形成順序とは無関係につけられている.一方,本稿の火口形成順序・時刻は,目視・ビデオ記録および写真判読による筆者の独自調査に基づいている.
写真2:N7およびN4開口直前の西山西麓(4月1日09時35分撮影)
依然としてN12(あるいはN11)から白煙が上がっている.
この写真の約3分後にN7が,約8分後にN4が開口した(後述)のだが,本写真ではN7およびN4が出現する位置に特に異常は見当たらない.
また,後にN10が出現する位置にも異常は見当たらないが,N8?に相当する位置には火口らしきものが認識できる.もしこれが火口であるならば,N8は9時35分の時点で既に開口していたことになる.
写真3:西山西麓に新しい火口(N7)が出現した瞬間(4月1日09時38分撮影)
N12(あるいはN11)がやや活発になっていたとき,約300m南東に離れた地点から突然白色の噴煙が上がった.噴煙の噴き出す勢いは次第に強くなり,噴火開始から10秒余りで火山灰混じりになり,急速に黒色の噴煙となった.4月初期の活動は,このように次々と新しい火口を形成するという特徴があった.なお,新火口の左方向に見えている亀裂は,この火口の形成前から既に存在していた.
写真4:西山西麓のN11,N12がやや活発化した状況(火口群の南西上空から4月1日10時01分撮影)
撮影の少し前には高さ200-300mのコックス・テール・ジェットも出ていた.
4月1日の西山西麓の活動の中ではこの10時前後のものが目立っていて,黒煙が300-500m程度,白煙は1000m程度上がっていた.
撮影時には,N11,N12のほかにも,N7 (9時38分形成)およびN4 (9時43分頃形成) が同時に活動中であった.
写真6:「N6’」火口が活発化した様子(4月1日16時31分撮影)
N6’が活発化.直上のN7も同時に噴煙を上げているように見える.
写真7:火口から熱泥流が流出する様子(4月1日16時37分撮影)
同火口(N6’)はさらに活発化.火口から直接熱泥流が流出して,湯気を上げながら沢を流れ下っている.
写真8:活発に灰混じりの噴煙を上げる金毘羅山火口(洞爺湖温泉街北西上空から4月1日16時21分撮影)
金毘羅山火口群は,4月1日11時40分に洞爺湖温泉街からわずか数百mの至近距離に出現した.
写真は,16:21頃にやや規模の大きい爆発が起こった時の様子.
金比羅山中腹に当時2ケ所あった火口の内,下側の火口から大量の黒色噴煙が噴出した.
最盛期には黒煙が500m程度,白煙は1000m以上上がり,東方向に降灰をもたらした.
しかし,噴煙は1分ほどで白色噴煙のみに変わり,急速に弱まった.激しい爆発の継続時間は2分間ほどであった.
写真9:再度灰混じりの噴煙を上げる金毘羅山火口(4月1日16時45分撮影)
16時21分のやや大きな爆発のあと一旦活動は治まっていたが,16時44分に再び爆発した.写真はそれから爆発が次第に治まっていく途中の様子.
写真10:北西上空から見た有珠山全景(4月1日16時52分撮影)
活火山のごく近傍にこれほど大きな町が作られている状況は他に例を見ない.
撮影時には金比羅山火口群が活発で,西山西麓火口群からは弱い白色噴煙が出ているだけであった.
写真11:西山西麓に次々と開いた火口の群〜その1(4月1日17時04分撮影)
写真12:西山西麓に次々と開いた火口の群〜その2(4月1日17時07分撮影)
写真13:西山西麓に次々と開いた火口の群〜その3(火口群西上空から4月1日17時07分撮影)
これらの火口の形成順序は,N1,N2,N3(3月31日13時07分〜)→N11,N12(4月1日未明)→N7(4月1日9時38分)→N4(4月1日9時43分頃)→N10, N6’, N6?, N8?(4月1日の10時10分頃から16時17分の間)であったと考えられる(カッコ内は形成された時刻;ただし,N8?は4月1日早朝に,N6’はまさに16時17分頃に開口した可能性がある).谷沿いに見えている白い筋は,火口から溢れ出してきた泥流の跡である.N11, N12の脇には泥流が溜まってできたと考えられる池が見える.
写真14:有珠山山頂部の様子(山頂の西南西上空から4月1日17時18分撮影)
小有珠溶岩ドーム,有珠新山潜在ドームなどが見える.2000年噴火活動では,山頂部には若干の亀裂が形成された程度で顕著な変動は見られなかった.